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寺尾伴内、大滝詠一を語る

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寺尾伴内、大滝詠一を語る


大滝詠一が2013年12月31日に惜しくも亡くなってしまった。ぜひ話したいことがある、というメールが寺尾伴内氏から来て、14年の年明けそうそうに待ち合わせて話を聞いた。

取材・文/半熟たまご
2020年4月掲載

――正月休みの間、いろいろ考えることもあったと思うんですけど、大滝さんの曲を改めて聴いたりしましたか。
 「31日も仕事だったんですよ。仕事柄、いやでも音楽関係の人に会わなくちゃいけないような環境で。でも、会ったらかならず、大滝さんが亡くなった話題になってしまうじゃないですか。その日はなんとかうまく切り抜けたんですけど。で、曲を聴いたかというと、31日、外に出て移動するときに、たぶん<幸せな結末>とかを聴いていたと思います。何年か前に加藤和彦さんが亡くなったときは、無性に切なくってすごく感傷的になったんですけど。僕の場合、加藤和彦さんはすごく憧れの人であったけども、いうなればジョン・レノン的な存在の人だったんですね。大滝さんについても、ほぼジョン・レノン的な存在であったにもかかわらず、たまたま13年の10月にお会いしてしまったために、なんとも言えない距離感になってしまって。気持ちの整理は、しばらくつかなかったです」

秋元康に“はっぴいえんどは聴いてるの?”と聞かれて

――いろんな人が追悼のコメントを出していますけど、ROLLYさんが似たようなことを書かれてて。“あなたの音楽に包まれながら、不思議な事に究極の幸福感を感じています”といったポジティヴな言葉でした。ところで、伴内さんが最初に大滝詠一の曲を聴いたのは、世代的には<幸せな結末>(97年)あたりですか。
 「自分の体験をさかのぼると、おそらく自然に当時、<幸せな結末>を耳にしてはいたと思うんです。でも、明確なきっかけっていうのが別にあって。僕が高校生のころにアルフィーの坂崎さんが出していた『坂崎幸之助のJ-POP SCHOOL2』(01年)というコンピレーション盤を聴いて、そこにはっぴいえんどの<はいからはくち>が入っていたんです。その時に初めてはっぴいえんどを聴いたんですけど、全然よくなくって。“なんだこれは?”みたいな。それで、高校生のころはスルーしていたんですけど。大学に入って、慶應の<でらしね音楽企画>という60、70年代のロックやポップス好きが集まるバンド・サークルに入るんですけど、そこに入ってもしばらくは相変わらず好きになれなかったですね。ちょっとこう、いなたい雰囲気もあるじゃないですか、はっぴいえんどって。もっとウエスト・コースト系の、CSN&YやGAROのようにコーラスがビシッと入るロックのほうに興味があったんです。
 ところが、僕が大学2年か3年のころに転機が訪れるんですね。当時、秋元康氏が文学部で<詩学>という一般教養の講義を受け持っていて。その時にたまたま、太田裕美さんの<木綿のハンカチーフ>をテーマに解説することがあって、そのついでに太田裕美さん版の<さらばシベリア鉄道>も題材に上がったんです。すると松本隆さんの詞のつながりで、そこで大滝さんの話題も出てきたんですね。でも、当時はそこまで大滝詠一に興味がなくて」
――寺尾伴内が誕生する前ですか。
 「そうです、ぺロニカ結成前ですね。あ、ちなみに、ぺロニカの前の“べロニカ”という前身グループのころは、“ノン・レノン”と名乗ってたんですけど(笑)」
――そういう変名を持とうとする発想って、すでに大滝詠一的ですね(笑)。多羅尾伴内、イーチ大滝、イーハトヴ・田五三九など、何かをパロディにした変名を、大滝さんもたくさん持っていました。
 「言われてみればそうですよね。自然と、そういうところはあったのかも。話をもどすと、僕はあの<さらばシベリア鉄道>っていう曲が、大好きなんですね。歌詞の中に“君は近視/まなざしを読みとれない”という一節があって。松本隆さんのそのセンスのすごさを、秋元氏にぶつけてみたんですよ。そうしたら、“はっぴいえんどは聴いてるの?”と言われたんですよ。まあ、2曲くらいは聴いていると答えたんですね。そうしたら、秋元さんが“いやね、僕ははっぴいえんどを聴いてすごく感銘を受けたんだよ。あの曲が一番すごいから聴いてごらん、ほらあの<炬燵>っていう曲”とおっしゃるもんだから、なるほど!とメモをとるじゃないですか。ミーハーだったんで、秋元先生がそうおっしゃるんだから聴こうかな、と『ゆでめん(はっぴいえんど)』とか『風街ろまん』あたりを手に取るわけですね。ところが、<炬燵>なんて曲はどこにも入っていない(笑)」
――“お正月と言えば…”(<春よ来い>)って話ですよね。
 「そういうことです。で、ちょうどそのころサークルでもはっぴいえんどのコピーバンドをやろうとしていたタイミングもあって、一気に聴き始めるわけですが、スタートは遅い。つまり、秋元氏の紹介で、はっぴいえんどを聴いたというのが、大滝詠一さんの音楽を聴き始めるきっかけだったんですね」

同人誌的“フュージョン感覚”を音楽へ応用

――はっぴいえんどの中の大滝詠一という存在について、そのころはどう思ってましたか。
 「当時、はっぴいえんどからの流れで大滝さんのソロ『ロング・バケイション』を聴いたりもしていたんですけど、あの作品のすさまじさとかに比べて、はっぴいえんどでの大滝さんっていまいち分かりにくいところがあったような気がするんです。岡林信康のバックに入っても、大滝さんだけやることなかったりとか。はっぴいえんどのころは、あまり甘い声で歌ってはいなかったし」
――『ロンバケ』のすさまじさっていうのはどういうところだったんですか。当時の感覚で言うならば。
 「まず圧倒的にメロディがいいですよね。あれだけのものを一枚に詰め込んだということ。そして、素敵な声のシンガー・ソングライターだなという印象でした。それが、本当に最初の印象ですね」
――ぺロニカを結成したのは、その1年後とかでしたか。ぺロニカを始めたとき、音源公開サイト<Myspace>に、影響を受けたアーティストの名前をたくさん挙げていたと思うんですが。ああいったやり方みたいなものも、『はっぴいえんど』のクレジットで彼らがバッファロー・スプリングフィールドとかの影響元を明かしていたように、大滝さん(はっぴいえんど)的なエッセンスをとりいれていたんですよね。
 「そうなんですよ。僕ね、ひとからよく“渋谷系”だと思われるんですけど、そういうルートを通ってきた人間ではないし、実際そうではないし。ただ、精神性というか、こと音楽に限ったことではないんですけど、小学生くらいのころライトノベルみたいなものを書いてたんですよ。どういう内容かっていうと、当時のいろんなアニメとか漫画とか、子どもは好きじゃないですか。<エヴァンゲリオン>とか、そういういろんなキャラクターたちが、ひとつの世界に同時に存在している、いわば同誌的な世界を作っていたんですね。
――すでにパロディが好きだったんですね。
 「うん。フュージョンというか、違ういろんなものをひとつの世界にまとめることが小さいころから大好きだったんですよ。そういう癖が音楽をやったときにも出ちゃったんでしょうね。だから、ぺロニカっていうグループをやろうとしたときも(詳細はトリコロール・サマー』インタヴューを参照)、いろんな曲の面白い部分、気持ちいい部分、ネタをひとつにまとめることを実践したんですね。たとえば<瞑想ジュテーム>という曲にしても、大滝さんもよく引用していた“ダンドゥビ”コーラスが登場するし、どこかで自分と“ハモる”ところがあってそうしていたのかもれしれないですね。僕は大滝さんのレコードをすべて集めたり、マニア的な聴き方をしているわけではないけども、人としてすごく尊敬している部分があったと思うんです」
――大滝さんも洋楽を意識的に聴き始めたのが50年代後半(コニー・スティーヴンス<カラーに口紅>がきっかけと言われる)。そしてビートルズの日本盤デビュー(<抱きしめたい>)は64年2月5日で、FENのラジオでそれより早く聴いていたんですよね。そういうリスナーとしてのバックグラウンドを今度は音楽家として、主に84年までアウトプットしていくことになるわけです。
 「ところで、大滝さんの音楽家としてのモチヴェーションっていうのはどういうところにあったんでしょうかね?」
――音楽家として演奏を始めるよりも前に(ギターを弾く前にはドラムを演奏していたが)、遊びとしてラジオDJを初めているんですよね。かなり熱心なラジオ・リスナーだったみたいで。その時代のヒット・チャートをみると、それこそダンドゥビ系のアメリカン・ポップスから、64年を境にいきなりイギリス勢が人気を集めるようになるんですよね。一方で、当時は中学校のクラスなんかでも、ビートルズを聴いてた人なんて2~3人くらいで、ほかはほとんどが橋幸夫とか<御三家>が人気を集めてたと言います。後に“音頭”を実践するようになるわけですが、大滝さんの体の中には、英米のポップスと同時に、そうした日本の民謡・歌謡曲も流れていて、そのどちらの体験も否定することなく、自分の表現にしていくということが、大きなモチヴェーションとしてあったんじゃないか、と個人的には思ってます。だから、後にクレイジー・キャッツなどとの仕事/再評価につながっていくのではないかと。
 「そうした諸々のゴールに『ロンバケ』があったということですね。話を戻しますと、その<Myspace>に影響を受けたアーティストを羅列した時にはすでに、『ゆでめん』を知っていたので、もちろん意識的にやっていました」
――ぺロニカの『トリコロール・サマー』を制作するなかで、いっそう大滝さんの音楽を意識するようになっていったんですか。
 「制作の前や後でも、僕はずっとはっぴいえんどみたいな音楽をやりたい、って豪語していて。いろんな音楽や芸術みたいなもののいい部分をひとつに落とし込んで、実践した疑似世界のようなものが『風街ろまん』だったりしたわけで、音楽としてのはっぴいえんどっぽさというよりも、センスとして非常に近いものを感じていたような気がするんですよ」

失われたものへのノスタルジー

――はっぴいえんどが『風街ろまん』で、東京オリンピック(64年)前の“失われた東京”を風街として表現したわけですが、『トリコロール・サマー』には“失われた夏を求めて…”というキャッチ・コピーが入っていますよね。どちらも、ともに失われたものへのノスタルジーがあるように思うんですが。
 「それ、いま言わなくちゃいけないと思ってたところだったんですけど(笑)。“失われた夏”とあるように、『ロング・バケーション』をイメージしていたところがあったんですよね。当初はメンバーが三人いたから、トリコロール(三色)、そしてサマーをつけたと。そういうことだったんだけども…」
――『トリコロール・サマー』(10年)で追い求めた“夏”は、発表したひとつ前のディケイドにあたる00年代ではない? それと、冬の歌も多いですが、それも<シベリア鉄道>で完結する夏アルバム『ロンバケ』っぽいと思うんですけど。
 「いま思うと、意識していたところと無意識なところの両方で近い部分がたくさんありましたね。夏っていうのも、00年代から10年代に入りかけのあの夏の香り、みたいなものもあるんですが、それ以上に、誰しもいつの時代でも思い浮かべる、想像上の夏、というところに近いと思うんですね。そういうものをパッケージングしたっていうのが、『トリコロール・サマー』だったんじゃないかと。そこで、はっぴいえんどみたいなアルバムを作りたいと思っていたし、自分ではそれができたと思ってるんです。でも、誰に話をしてもはっぴいえんどっぽいとは言われない。大滝さんが亡くなって、いろいろ思い返したりとかして、7曲中5曲アレンジ上の大滝さんへのオマージュがあって。歌詞では、やっぱり『風街ろまん』とユーミンを意識してて」
――話を伺っていると、いずれ『トリコロール・サマー~30周年記念エディション』とか出せちゃいそうな感じですね(笑)。2040年ですか。
 「やばいですね(笑)。『風街ろまん』ということでいうと、<組曲、真冬のヴァカンス>なんかは、歌詞の上で男/女のやりとりと、松本隆が書いた<木綿のハンカチーフ>の構成をとりつつ、最後は風街のような場所にたどり着く話なんですよ。“春を待ちきれぬ/路面電車よ/あなたを連れて行かないで”というところも今思うと、大滝さんが亡くなったことと重ねると、やっぱり寂しいですね。イントロから完全に<君は天然色>で、その元ネタはウィザード<シー・マイ・ベイビー・ジャイヴ>でしたけども。次の曲である、<僕はムッシュー>はデカタンそのもの」
――加藤和彦、入ってますよね。
 「世界観的にはそうなんですよね。とはいえ、ヴォーカルとしては大滝詠一を意識しているわけで、彼への思いは強いわけです。なぜか、寺尾伴内と名乗っているわけですし。<はいからはくち>を学生時代にバンドでやっていたとき、最初の口上(Hi. This is Bannai Tarao...)をやっていて、生まれたわけなんですけど。そういうところから始まり(笑)。僕の寺尾伴内というペンネームは、Teraoではなくて、Terawoと、Wがつくんですね。これは卒業論文で、細野晴臣さんについて執筆してときのこと、細野さんにサインを頂いたんですよ。『細野晴臣の歌謡曲~20世紀BOX』(09年)っていうボックスが出て、その時に、“寺尾伴内”って僕の名前を入れてくださいとおこがましくも伝えて、書いてもらったんです。そしたら、どう見てもWが入ってて。間違えたかな?と思ったんだけども、細野さんのセンスでそう書いていただいた、と受け取ることにしたんです。それでまあ、以降、自分の名義を書くときにはWを入れるようになったわけです(笑)。ただ、自分としても『トリコロール・サマー』も今思い起こせば、自分ひとりでだいぶキャラクターを使い分けたんですね。だから、大滝さんのフォロワーというよりも、やりたいと思っていることが似ていたのかな」

――ナイアガラーではない、と。
 「そうなんですよ。その後、とあるミュージシャンの制作に携わったときに、“ナイアガラ・サウンド”について改めて向き合う機会があったんですね。一種の狂気じみている試みと、あの多幸感に包まれるようなサウンドは、これはもう狂人のなせるものなんですよ。それについて、実は個人的に研究ノートをしたためていて、いまいつでも実行にうつせる段階にある(笑)。将来的な目標として、やっぱりナイアガラ・サウンドをそのまんまの編成でやるのは無理でも、挑戦してみたいんです」
――ナイアガラ・サウンドとは、かいつまんで説明するとどういうことなんでしょうか。
 「一応フィル・スペクターから話しておきますと。彼らが制作を始めていた50年代は、電気楽器もそこまで歪みを出せたわけではないし、音圧的な部分では貧弱な状況にあったじゃないですか。その中で、オーケストラの編成をモチーフにして、音を重ねていくんです。当時のことだから、トラックの数も4トラックとかそこらで、だから、マイクを部屋にぶっこんで、みんなでせーの、でやるしかなかったんですよね。グランド・ピアノも2台入っていたりして。それで、ドラムスは1台だけども、ベースが二人いて、エレキが二人、アコギはたしか4人くらいいたんじゃなかったかな。大滝さんもそのスタイルを踏襲しているわけです。とにかくひとつのマイクに向かって、せーのでやると。大滝さんはステレオで録って、演者がどこにいるかで、音場を表現する。みなさんリヴァーヴやエコーの部分に耳が行きがちなんですけど。それがつまったものが、やっぱり『ロンバケ』だと思うんですね。あんな幸せな音をどうやって作ってたんだろうね…」
――大滝さんは、リズムもすごいわけですよね。
 「そうなんですよ。だけども、とてもポップに聴かせているじゃないですか。そんなことってすごく難しいと思うのね。やっぱり、いびつなものになりがちだから。そこは解き明かしていかなくちゃいけないな、と。たとえば40年経って、大滝詠一についてしゃべれる人がほとんどいなくなる、ということにならないようにしたいな、と思うんです」
――大滝詠一さんはラジオで、よくこんなことを言ってました。大滝詠一という名前が残るよりも、誰が書いた曲か知らなくていいから、曲が残ってくれればいいと。
 「それってさ、まさに詠み人知らずの世界!」
――民謡であったり、バラッドの受け継がれ方に近いところを思っていたんでしょうね。大滝さんが山下達郎に共感しているのは、ああいう国民的なクリスマス・ソングを作ってしまったところ。それこそ、<君が代>などとも並べていい曲であると。普遍的なメロディ、楽曲とは何かということは、また機会を改めてお話しましょう。今日はありがとうございました。

(2020年4月掲載)


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